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共著物語

秋山真琴×泉由良 並行世界

洗濯物、丁寧に

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 垂直に九十度、ずっしりとした重みを手首に感じながらジェットスチームトリガーを引くと、蒸気の弾ける音と共に、アイロンの底面から大量のスチームが放たれる。紫煙とは似ても似つかない、充分に熱せられた水蒸気は、室内の湿度をわずかに上げると、すぐに見えなくなってしまう。上々である。七十六すべてのスチーム孔が、詰まることなくその機能を十全に果たしているのが分かる。機能を確認したところで、まずは襟から。寝かせたワイシャツに、アイロンをそっと押し付ける。すぐさま噴射されたスチームが、シャツに刻み込まれた皺をやさしく引き伸ばしながら、スチールメッシュ構造のアイロン台を抜けて床へと落ちてゆく。もちろん抜けるのはスチームだけで、熱は表面に施されたアルミコーティングに反射し、拡散されることがない。襟を終えたら次は袖、そこから流れる仕草で腕を処理する。反対側の袖と腕も済ませたら、大きく広げてから肩から胸を経て、裾までを一気に仕上げていく。左胸側を終えたら、最後は右胸側、ボタン周りはリズミカルに緩急をつけて。一分と要さずに一着を終えて、ハンガーに掛ける。パスタが茹で上がるまでに、一週間分を片付けられるだろう。

姉の帰省

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 そろそろ起きる頃かな、と部屋に目を向けると、白い夏掛けに包まった姉はまだ穏やかな息を立てて眠っていた。洗濯カゴから拾い上げたTシャツを折り畳んでたん、たん、と叩く。姉の白いTシャツ。染みはうっすらと、殆ど見えなくなっていた。
 昨夜、久し振りの帰宅を歓迎された姉は、母が用意したご馳走を嬉しそうに食べていたとき、「お姉ちゃん、お醤油付いたよ」「え、なに?」「Tシャツにお醤油飛んでる。お刺身の」「あ……」姉は悪びれずにくしゃっと笑った。「てへ」ああいうところ、 むかしから変わらないなあ、と思う。ずっと変わらないのかな。

 ううん、と小さな声を出して、乱れたポニーテイルのあたまが持ち上がった。
「あ……寝ちゃってた。お布団掛けてくれたの?」
「お姉ちゃんカルピス作ってあるよ」
「濃ゆいの?」
「薄いの」
 姉は薄めのカルピスが好きだ。姉は立ち上がって、台所へゆき、グラスを持って戻ってきた。少しずつストローでのみながら、僕が洗濯物を干してゆくのを見ている。僕は父のハンカチを畳んで、手のひらのうえで叩いた。
「きみは洗濯物、丁寧に干すねえ」
「そうかな?」
「うんでも分かるよ。干す前にそうやって皺は伸ばした方がいいんだよね」
「お母さんに習った?」
「うん。きみも?」
「うん」
 そこで姉はふわりとあくびをした。「眠いの?」「ううーん」姉は猫みたいな伸びをする。
 せっかく帰ってきたのになあ。僕はなんとなく、微笑んだ。蝉がしんしんと降りつむ。夏休みだ。

久々に会った

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 目を覚ますと父が洗濯物を干していた。洗濯機の中で充分に撹拌され、こぼした醤油が残した斑点や、トマトケチャップの染みが抽出され、買ったときの白さを取り戻したシャツは、くしゃくしゃになって籠の中で丸まっている。父は、人指し指と親指でシャツを注意深くつまみあげると、きちんと折り畳んでから、パンパンと叩く。そうして、皺を伸ばしてから、ハンガーに掛け、物干し竿に吊るしていく。ちょっとくらい皺があったって気にしないから、もう少し雑でもいいのにと思う一方、久しぶりに会った父が生来の几帳面さを失っていないことに、安堵感を覚える。「起きたのかい。カルピスを買ってきたよ」「うん、ありがとう。お父さんは、いつ帰ってきたの」「ついさっきだよ」洗濯機を回転させる時間を考えると、少なくとも一時間は経っているはずだけれども、そう思いながら立ち上がる。畳に寝汗が染みこんで、なんとなく人間の形になっている。気恥ずかしい。空気が循環するようにと、あらぬ方向を向けていた扇風機を移動させて畳を乾かす。カルピスを飲みながら、ベランダの様子を窺うと、もう父はいなかった。せっかく帰ってきたのだから、のんびりすればいいのに。

土のあじわい

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 久々に会った娘と食事を摂って店の外に出ると、外は夕暮れが去りゆく頃合いで、そして彼女が発光しているのが分かった。「光るの、母さん譲りだな」「お父さんは光らないんだね」「近頃は発光する人間も減ったからなあ。お前も何処かに身を寄せているのか? そう云えば、住所を聞いていなかったな」
「住所は」娘は柳眉を困ったように寄せて、微笑んだ。「砂の下だから」
「やはり、隠れているのか」
「あまり目立つわけには、いかないから」
「不便かい」
「そんなこともないよ」
 娘は染みも皺もないような、白いシャツを着ている。
「お父さん」
「ん?」
「あんみつ、食べたい。まだ時間良いでしょ」
「ん、食べるかな」
 今年で十六だっただろうか、娘は所在無さげに見える。いや、私が落ち着かないのか。
 燈の点いた甘味処の入り口に腰掛けると、宵闇のなかの娘の発光も目立たなくなった。
「クリームあんみつと……」注文をしながら私を見遣る。「あ、僕は白玉を」
「え、白玉?」娘が店員をとどめた。「私も、あんみつ取り消しで、白玉」
 注文をとった女性は品書きを受け取って店の奥へ消える。
「お父さん」
「ん?」
「万年筆、ありがとう」
 今日はパーカーの万年筆を買ってきたのだった。
「まあ、時々使って、あと手入れをすると良いものだから」
「出来るかな」
「花火大会の頃、また来ないか? 浴衣とか着てさ、あ、いや精霊流しかな」
「もう暫くは……」娘の眉がまた傾く。その眉間がぼんやりと光っていた。「あまり出ちゃ、いけないもん」
 またおいで。それを云うタイミングを計りながら、運ばれてきた白玉を黄な粉に潜らせた。白玉は心なしか仄かに煌めくようで、それは砂の下で発光する霊魂を連想させた。
「お父さん」
「ん?」
「また来世だね」
「ああ、そうだな」

  


   

ひかるひと

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「このあたりは、あまりひからないね」娘からの信号を受けて、左目を開けてみれば確かに周囲は暗闇に包まれていた。体表面を守っている防塵液が、眼球に染みこむ前に左目を閉じて、意識をこめかみから生えている二又の触覚に戻す。念のため第三膝を折り畳んで、地面に爪を立てて、主爪と副爪の間に入った土を、顎腔から体内に取り入れる。なるほど雑味のない、スッキリとしていて、どこか爽やかさを感じさせる味わいだ。ここまで無念が蒸発しているとなると、少なくとも死後千年と見て間違いないだろう、ひとであるならば、とうに死に終わり、死後光の残量も尽きているはずだ。「奇妙だな、もっと新しい遺跡だったのに、注意せよ娘」「はい、とうさま」歩幅を狭め、慎重に前進する。だが、警戒は遅かった。突然、足元の地面が崩れ落ちたのだ。どうやら空洞の上に、薄い地層が乗っていたらしい。身軽な娘は咄嗟に跳躍して、壁に取り付いたが、砂礫に八肢を絡め取られた私は、間に合わなかった。落下するにつれ酸素が失われる。自閉のため意識に遮蔽材が注ぎ込まれる。死ぬ前に、娘の姿を見たくて五十年ぶりに両目を開ける。周囲は輝いていた。まさか転輪説が正しかったとは。

塵芥の降る

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 遠い天井から、白くきらきらひかる粉のようなものがいっとき降り注いで、やがて止んだ。
「また死んだね」「また殺された」「殺されてない」「逃げた」「兎に角消えた」「死んだの?」「逃げたの?」「殺したの?」「死なせるの?」「死ぬの?」
 塵がさらさらと流れる上層がさわさわと囁く。地層で云えば彼らは、幼年層である。
 青年層がかぶさるように言葉を発する。
「愚かだな」「いいじゃないか、この場所が豊穣になるのだから」「地上の大地は汚辱だな」「その大地が濾過した光が降るんだ、そう嘆くなよ」
 彼らは刹那的なところもあり、何も考えていないようなふしもあった。
 それでも、あの塵芥がこの深みの更に底にある世界に情報と概念を降らせていることを考えれば、降り注ぐそれは、悪いものではなかった。
「誰が幼な児に殺しただの殺されただのという言葉を教えたんです?」
 中年層のなかに眉を顰める空気があった。
「死んだだなんて」
「ぬしも死を知らないわけではないだろう。やがてあの児らも地層を重ねて沈んでゆくんだ、お前のような年齢になる」
 老年層に差し掛かった低い声が云った。老年層と中年層のあいだには、一角獣の化石が埋まっている。ここはきみとは違う世界なのだ。
 最下層部は目を瞑り何も発言することはない。地上の世界が完璧に清廉になれない限り、私たちはこの深い深い下層部の世界で、きらきらひかるひとの果てなる砂を受けながら、じっと堪えているのだ。