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共著物語

秋山真琴×泉由良 並行世界

袋小路

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 逃げ込んだ先は袋小路で、すぐに追い込まれたことを知った。じっくり観察している暇はないけれど、抜け道は見当たらず、通りに戻った方が得策に思われる。しかし、そんな時間は元よりなかったのか、振り向いた先に待ち構えていたのは、にたりと三日月形に歪められた殺人者の邪悪な笑み。せめてもの抵抗にと、彼我の間隔を維持できるよう一歩分の距離を後ずさるけれど、無慈悲な壁にぶつかってしまう。漸近する殺意は迷いなく零へと肉迫し、接したときに命は落日のように微かな残光を残して消滅するだろう。その近い未来は手に取るように想像できる。せめて、この袋小路に死角があったならばと天を仰ぐ。或いは一瞬でも構わない。かの視界から逃れることが出来たならば、無限の想像力と量子的な飛躍で以って脱出できたというのに。瞠目したそのとき、些細な音が聞こえた。殺人者の足元へと視線を向けると白い塵芥が散らばっていた。粉雪のようにも見えるそれは、骨が粉々になったものだった。追い詰められた無数の可能性たちの、無数の成れの果て。不気味な幻想に殺人者は思わず足を止めてしまう。それが過ちだった。一陣の風が吹き抜けた後、袋小路に殺人者はひとりだった。

象牙と白骨

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 夜の路地で女が独り嘔吐している。苦しそうに咳込みながら、口から細く尖った象牙を延々と溢している。誰も居ない、助ける者は居ない。象牙が歪んだから口許から止め処なく落ちる。長い時間が経って、やっと嘔吐を終えた女は肩で息をしながら涙目のまま体を折り曲げていた。地面に散らばった象牙細雪のように消えてゆく。こんなことが起こるなんて、私、何を食べただろうか。凍てつくような寒空の下、疲弊でふらつく彼女は両腕を組むようにして震えた。季節は真冬だ。

 正午の袋小路で男が独り嘔吐している。苦しそうに咳込みながら、白く小さな欠片を口から溢している。それは白骨の破片だった。誰も居ない、助ける者は居ない。男は骨を吐き続けながら薄い意識のなか思った──昨夜は呑み過ぎたな──。季節は真夏だ。

椅子が喋る

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 物言う魔剣や物語る魔書。世には、人語を解する魔性の無機物がありふれているが、喋る椅子というのは初めて見た。財という財を積み重ね、屍を踏み越えてきた老人は、玄色の顎鬚をしごきながら梟のように笑った。そうして愉快そうに、象牙を組み合わせて作られた皓い椅子に腰掛け、優雅に足を組んだ。途端、商人が言っていた通り、椅子が喋り始めた。返して貰うぞ我らの時間を。貴様らは我らが故郷を蹂躙し、その居場所を略奪した。だが、貴様らが真に奪ったのは空間ではない、我らと我らの子孫の時間だ。椅子の声には不穏な気配があった。老人は商人の顔を見る、その表情には怪訝そうな色が浮かんでいる。危険を感じて老人は立ち上がろうとしたが、いつの間にかその両腕は、肘掛けに掴まれていた。背凭れから伸びてきた白骨が、老人の胸を背から貫く。老人は真っ赤な血を吐いた。骨が軋む音が響き、椅子が再び喋る。貴様を起点に時間を遡り、改竄する。貴様らは、この地に上陸できなかった、我らが眷属は貴様らの牙には掛からず、絶滅しなかった。突然、老人は宙に投げ出された。五十センチほどの高さから落下して、尻をしたたかに打った。象牙の椅子は忽然と消えていた。

檸檬投下

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 椅子が喋る。独りで喋る。椅子は喋る。
 部屋に迷い込んできた蝶を、子どもは追い掛けていた。椅子のうえに立って伸びをして虫取り網を振り回していた。網と棒の持ちかたが逆さまだ。まだ小さい子どもにはそれが分からない。ねえ、と、子どもは云う。蝶々に、そして幼児というものは自分独りでずっと喋っていたりするものだ。ねえー。ねえ。こっち。こっちー。ちょうちょー。
 ふと棒の先が蝶に当たったのだろうか、それとも既に弱っていたからか、蝶は落ちてきて、息絶えていた。ステンドグラスのようなただただ薄い翅が、はらりと胸から外れた。子どもは黙って暫く落ちてきたそれを見ていた。……ねえ。その感情を幼い子どもは何と呼ぶか分からなかった。
 翌日、子どもは祖父と一緒に出掛けていった。麦わら帽がよく似合う夏の日だ。そうだよ、子どもはとても可愛いし、まだ本当に小さいんだ。椅子は思い出しては反芻する。その椅子は、子どもの為に祖父が作った椅子だった。幸せだな。ああ、幸せだったな。子どもと一緒で楽しかった。不在がこの家を侵食して、椅子は譫言を繰り返す。子どもは可愛かった。小さくてまだ色んなことが出来なかった。生まれてから髪を切ったことが無かった、まだ2歳なんだ。

「あの子を置いてきてしまった」
 と、男が悲痛な声で云う。まだ2歳なのに。2歳だよ、可哀想に。誰に云うでもなく繰り返す。旅先案内人が舟の先頭から振り向く。黄泉への舟に乗った人間が、今日は殊更に多い。投下された檸檬の爆弾は恐ろしい威力を発揮した。一瞬の光、そして轟音。
 椅子が喋る。独りで喋る。椅子は喋る。
 早く帰ってきたら良いのだが、子どもが。
 椅子は思うがしかし、淋しくはない。誤謬を裏返し続ける日々。椅子は現実を見ない。知りたがらない。知っていた。もう何も無い。すべて終わりだ。子ども、いないのか。いや、帰ってくる筈だ。早く、あの軽い足音を立てて駆け寄ってくる筈だ。子どもは自分が護るのだと、椅子は思い込んでいたかった。
 長い時間を過ぎながら、木製の小さな椅子はひとりでに壊れていった。子どもはずっと昔に祖父と一緒に旅立ったままである。祖父と子どもが出先で離れ離れになっていることを、椅子が知ることは無いままだ。

今夜はメンテナンスに出そう

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「何かがおかしい」確信を込めて独白した男の目は、しかし落ち着きなく左右に揺れており、言っていることに対して自信を持っているどころか、自分が何を言っているのかさえ把握できていないようであった。「断絶がある。蝶。連続していない。電車。意図していないところが、檸檬、接続されてしまっている。蟷螂。居るべきでない人間が、不在通知、在るべきでない場所で、螺子、生まれていないはずの言葉で、年表、知らない知識を広めている、旅先案内人。誤謬が生じて、生じて、生じている」分厚い辞書を放り投げ、開かれたページに書かれてある言葉を、偶然性に身を任せて拾い読むように、男の発言は支離滅裂だ。譫言を繰り返す男は、出入口のない、隙間ひとつない密室の中央に設えられた棺の中に潜り込むと、内側からしっかりと閉じ、暗闇の中で安心したようにようやく目を瞑り、静かになった。幾許かの時間が過ぎ、微かな振動音と共に、天井が開かれ、ひとりで浮かび上がった棺が、天へと送り届けられている。雲の上で、男は工場出荷時の状態にまで巻き戻され、男が覚えていた違和感も恐れていた不安も、何もかもがなかったことになり、世界は矛盾を抱えたまま推移する。

違う駅

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 下りた駅が違う。そんなことが嘗てあっただろうか、という懐古は無い。何処で間違えたのか、という迷いも無い。心に鍵が掛かっている男が為すべきことは、ただバックアップを同期し直して正常な座標へ戻るまでだ。理由の解明は俺の担当ではない。

 反対側のホームに立ったところで、見覚えのある男が立っていた。自分より若い。しかしあの黒い身なり、短い髪──彼が横を向く。五年──いや、十年前か、そのときの自分だった。
「ハートに鍵を掛けているね、俺」
 彼が云う。自分は声を出さない。彼と会話することは行動規範外だ。
「いつからそうなったんだ? 昔を覚えているか?」
 彼は続ける。男は彼を見た。今は常より、命令系統が脆弱になっているらしい。
「ねえ、これが鍵だよ」
 彼は──だんだんと若返っているのではないだろうか? 今は十代半ばの少年だ。白いシャツに黒いズボンを穿いている、
「なあ、忘れたのか? 俺だよ」
 彼が俺を呼ぶ。
「いつからこうなったのかな?」
 十二歳ほどの少年が話し掛けてくる、苛立ちという要素が鎌首を持ち上げる感触がした。それは日頃の脳には無い動きで、指先がじんじんと痺れた。
「いつから僕なの?」
 七歳ほどの少年が問いかける。少年は鍵を持っている。
「ねえ、僕はいつから僕なの? 君はいつから君になったの?」
 その目は澄んでいる。
「鍵は、ここだよ」

 何かバグがあるな。検索した次の列車は一分と二十四秒後にホームに滑り込む。扉が開き、無数のマネキンたちが転げ出てゆくのを掻き分けて乗り込む。神経系の命令、原点(0, 0)へ。 ホームにいた彼は、マネキンに押し倒されて、全ては見えなくなった。
 ふいに耳に残響が蘇る、──鍵は、ここだよ。
 選ばなかったんだ。俺は選ばなかった、様々な可能性。第一俺はずっと今の俺の形をしていて、今より年齢が若いことなんて無かった。俺に昔なんてものは無い。車内は空いていて、俺は窓際の席に座った。1か0の選択を、しなかった。今夜はメンテナンスに出そう。

鍵が解かれて私はほどける

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 ハートに鍵を掛けてある。閉じ込められた心は、あらゆる外部刺激から遮断されていて、なんのリアクションも返さない。どんなプロトコルも解さない。熱も光も、悪意も無理解も、閉ざされた心に影響を与えることはできない。定められた時間が通り過ぎたので、吊り革にぶらさがっているマネキンを押しのけて、排気音と共に開いた扉から外にでる。南国の太陽に焼かれた砂を、きれいに敷き詰めたように地面は、均一に熱を保持していて、反射的に汗が出てくるけれど、暑い、そう感じる心は不在のまま。枯れ木のような右足と左足を交互に繰り返し、ルーチンをなぞろうとしたところで命令系統に雑音が混じる。完遂できない。エラーが返ってしまう。大皿に貯められた、センサーからのデータに、スプーンを差し込んで、そっとすくいあげてみると、判明するのは、いつもとは違う駅だということ。そんなアルゴリズムは設定していない。改修するにしても、まずはスケジュールを切らなければ。そのためには帰らなければならない。バックアッププランに従って、反対側のホームに立ったところで、見覚えのある男が立っていた。男は右手に鍵を持っていた。摩擦抵抗はゼロだった。